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【被災地で企業再生に奮闘する経営者】(1)福島同友会会員

カテゴリー: シンポジウム

原発事故による環境の中で明日が見える経営を目指して

(株)キクチ 代表取締役・福島同友会常任理事 菊地 逸夫氏(福島)

 

■報告者会社 概要
設立:1950年
資本金:4,000万円
年商:102億円
社員数:692名(正社員112名・パート社員580名
事業内容:食品スーパーマーケット

 

 創業150年の(株)キクチ。地元からも新卒を積極的に採用し、2009年には売上100億を達成しました。そんな矢先に発生した東日本大震災、原発事故…。震災当日店舗では、売れ残りの惣菜を近所に配った・被害にあってない商品を避難所に届けた・停電の中で店頭での均一販売など、店長の判断により地域の「食」を提供し続けました。本社との連絡も取れない中、店長がそれぞれ経営理念をもとに判断した結果でした。若い社員の住み続ける不安も受け止めながら、新たな戦略に挑んでいます。

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 福島原発の被害を受けた相双地区には85社の会員企業がいます。原発から20キロ圏内の18社は未だに帰れません。会社も工場も元のままあるのだけれども、そこに入ってはいけません。原発80キロ圏内には46社があり、ここは自由に出入りができます。85社のうち1社だけが再開不能になりましたが、それ以外の84社はほとんどの企業が再開し頑張っています。

 今回相双地区会員85名のドラマを、魂を詰め込んだ『逆境に立ち向かう企業家たち』を発行しました。ぜひ読んでほしい本です。正直震災時には自分が一番大変だと思っていました。しかし、この本から自分よりも地域のことを考えて行動した仲間がたくさんいたことを教えられました。全国から各同友会事務局員が相双地区に来て会員の声を聞きとり文章に起こしてくれました。また、書いていただいた原稿を見て自ら書きたいとペンを再度とり書かれた方もいます。

 

地域に食を提供すること

 

 原発の爆発の後はとにかくパニックで、津波のあった店に入りこんだ泥を1週間掃除するだけでも参っていましたし、お客様が毎日並んで毎日商品がなくなって行くことが続いて、この先はどうなるのだろうという前が見えない日が続きました。商品は商品部が何とかかき集めていました。物流センターが仙台にあったのですが津波に流されてしまい、同友会の仲間からトラックをかき集めて集荷に奔走しました。 同友会のツテや従業員の親戚でも、何でもとにかくやれることは全部やる、という精神で商品確保と販売にあたりました。最初は食品の提供の使命感だけで仕事をしていましたが、お客様からの「開けてくれありがとう」の言葉から私たちが地域に欠かせない企業であることを再認識しました。地域に食を提供することの大切さを痛感しました。

 震災直後の3~4月は原発が不安定ということもあり、今後本部機能を仙台への移転を真剣に考え、毎日打ち合わせをしていました。その中で放射性物質に対してやるべきことをもう一度確認しようと、従業員が集まり整理をしました。  最初に、生活者を守るためにすべきことは何なのかで話し合い、まずは「食の安全」であるとまとまりました。今までは地産地消を推奨し地元の朝とれた野菜・魚を中心に販売していましたが、それができないので、東京のスーパーと条件は一緒と考え、日本全国から安全な商品を集める形に切り替えました。残念ながら、現在も福島県産の商品が少ない状況です。

 次にすべきこととして、情報を届けるコミュニティーになろうと、震災後、避難所生活で、新聞も見ることのできない住民のため、行政の施策について毎日各店舗の店長が役場に行ってその日その日の情報を店の入り口に張り出していました。当社の広告を配布できるようになった5月過ぎには、商品広告と並列に行政の情報を掲載していきました。

 避難所生活を余議なくなさっている方々は本当にたくさんいました。そこには多くの支援物資が届きますが、しかし、自宅は壊れていない人々は原発事故で外出禁止のため外に出て行けない事も重なり、食べるものが何もない人も多かったのです。そういう方に対して商品を提供し続けることをするのが私たちの使命と考え、あらゆる手で商品を集めました。

 また、心のケアーをしたいと多くの芸能人の方に慰問に来ていただいたのですが、市民会館は避難所となっており使えないので、店舗の一部を提供しミニコンサート等は毎週末行ってきました。食品メーカー様の商品の提供の場としても使って頂きました。みんな被災地を元気にしようと必至で、そのお手伝いをしてきました。

 

明日の見える会社にするために

 

 当時、将来に向けて社員も不安でした。会社の将来を語ることによって、みんなで前向きになろうと考え、200億企業にすると打ち立てました。震災直後100億円の売上がありましたが、南相馬の再開ができないと半分の50億円になるような状況でした。そんな中「倍にする」と言ったのですから社長は何を考えているのだろうという事になりました。まして4倍の200億円をめざすと宣言したのです。

 そしてそれを実現するためにはいくつかの店をつくらなくてはいけない、何よりも地域の雇用を増やせる、と皆で前を向き明日を考えるようにしました。2012年7月に宮城県蔵王町に、また2013年に津波で流された仙台の飛行場の隣に1店舗ずつの計2店舗出店を計画しました。南相馬がいつ再開するかわからないと待っているよりも、自分たちの力で従業員を守り、売上を戻すこと。南相馬の店が再開したらラッキーだなと考える方針を立てていました。そうしている内に4店舗あった南相馬の店舗のうち3店舗を再開することができました。再開したものの売上は半分以下からの再出発で、とにかく先週よりも今週のお客様の数を一人でも多くすることをやり続けました。お陰様で今は再開した南相馬の3店舗は震災前の売上を超しています。南相馬でどこよりもいいスーパーを展開するということがいま南相馬を離れている方々にとって、戻るきっかけになってくれたらと思います。多くの方が家族を亡くし自宅をなくしました。明日・来月・来年が見えない、そういうことを2年間経験し、明日が見える大切さを痛切に感じます。いま南相馬市では同友会が主体となり「南相馬市希望の町フォーラム」を立ち上げました。10年後の南相馬についてみんなの意見を聞いて方向性を出していこうと考えたものです。明日を踏みしめるためにも、相双地区の仲間と一緒に踏みとどまりながら切り拓かなければと感じます。

(記録:中同協事務局 冨永択馬)

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