ニュース - シリーズ【復興-我われが牽引する】

“地域に必要とされる会社”に(株)タカノ鐵工 代表取締役 高野 剛氏

327名の命を津波から守った【宮城・南三陸町】

高野氏

高野氏


 宮城県本吉郡南三陸町は東日本大震災の発生により、約1万7000人の人口のうち亡くなった方と行方不明者を合わせて1000人以上(6月6日時点)という甚大な被害を受けました。南三陸町で高野剛氏((株)タカノ鐵工社長、宮城同友会会員)が経営する高野グループは、327名のお年寄りを津波から守り、社屋の避難所としての開放、また震災発生直後から町の幹線である国道の復旧作業にあたるなど、全社が一丸となって被災者支援と復旧に重要な役割を果たしました。その背景には地域貢献をうたった経営理念と、津波を想定した定期的な防災担当者会議の実施など、防災体制の確立がありました。経営理念にこめた高野社長の思いと、震災発生後の被災者支援と復旧の取り組みについてお話を聞きました。

 

倒産を経験

 高野グループには、(株)タカノ鐵工のほか、(株)高野コンクリートなど別会社で運輸・建設・結婚式場があります。高野氏は3代目で、21歳で会社に入りました。当時は高野企業・高野組という2社体制で、志津川町(南三陸町は志津川町と歌津町が2005年に合併)の予算規模を上回る約50億円の年商、社員220名を誇っていました。

 しかし1994年、ゴルフ場開発への投資の失敗から会社は倒産。当時の経営者だった叔父と父親が亡くなり、高野氏には35億円の借金が覆いかぶさりました。親しかった友人も手のひらを返したように離れていき、さらには地域住民から「海が宝物の町に、大規模な開発を持ってきて海を汚す高野企業は悪魔だ」と言われました。高野氏は「重い十字架を背負ったような思い」で生きることになりました。

 苦肉の策で6社に分社化、そのような中で同友会に入会しました。最初はおつきあい程度の感覚で、参加しても地域の“勝ち組”の経営者たちがきれいごとを言っているようにしか聞こえなかったといいます。誘われて仕方なく参加した宮城同友会の第16 期「経営指針を創(つく)る会」も、何か言われたら言い返してやろうと構えて臨みました。すると予想していなかった「あなたは何のために仕事をしているのか」という問い。即答できませんでした。助言者から「もっと社員とかかわれ」と言われたことも心にひっかかりました。

 

社員の衝撃の一言

 そこで社員と話し合いを持ちました。ワンマン社長の突然の変化に「社長は頭がおかしくなった」と驚かれましたが、社員と何回か話し合う中で女性社員からこう告げられました。「会社の倒産に誇りを失ったのは経営者だけではありません。私たちも、世間の人たちからなんであんなつぶれた会社にいるの? と言われます。家を買うので銀行から借り入れをするときも、つぶれた会社に勤めているということで大変だったのですよ」と。衝撃を受けました。逃げ出さずに残ってくれた90名の社員がいたからこそ今があるのだと気づかされたのでした。

 衝撃を受けたもう1つの出来事がありました。あるとき父の机の中から書類が出てきました。読むと、地域に貢献するという強い思いが綴られていました。地域経済が潤うためのビジョンを描き、そこには「地域とともに」という理念が貫かれていました。莫大な借金を残した父を恨んでいたことを恥じ、涙がこぼれました。このことが地域とともに発展するという現在の経営理念の柱につながりました。

 

津波に備えて防災体制を確立

 経営理念の実践のために、毎朝各部署の朝礼に参加して社員と繰り返し話し合ったり、毎年の「経営計画発表会」を実施する中で3年目くらいから各部署の自主的な動きが出てきました。2006年9月からは地域貢献の取り組みとして「地域よし風作戦」を始めました。“地域に良い風吹かせよう”と年に3回、50~60名の社員が参加し、 道路掃除や老人ホームの落葉拾いを続けています。さらにそれが発展し、地域の防災に貢献しようという動きにつながりました。

 近い将来、宮城県沖で大規模地震が発生すると言われていたこと、志津川町は過去の大きな津波被害に見舞われたことをふまえ、防災のために自社でできることを考えました。高野グループ独自の「防災企業マップ」を作成し、震災発生時に各社の設備をどう活用するかを確認。また定期的に防災担当者会議を開き、震災時にそれぞれの社員がどのように動くのかを議論して防災体制の確立に努めていました。

327名のお年寄りを津波から守る

 

被災した高野会館

被災した高野会館


 このことは今回の震災発生の後、救援と復旧に威力を発揮しました。震災発生当日、高野会館(総合結婚式場)では300名を超えるお年寄りが集い、催し物が行われていました。この建物は4階建てとその地域では高層であり、津波時の緊急避難場所にできると防災担当者会議で話し合って毛布30枚などが備蓄されていました。

 地震発生時、自宅が心配で大急ぎで帰ろうとするお年寄りたちを会館のマネージャーが懸命に引き止め、4階と屋上に誘導、避難させました。その直後に襲った津波は3階まで飲み込みましたが、327名のお年寄りはケガ人も出ず全員無事でした。

 また、タカノ鐵工は高台にあるため、被災者の一時避難場所として指定され、毛布100枚や食料、発電機を用意していました。実際に約30名が50日にわたって避難生活を送りました。タカノ鐵工は同友会の支援物資中継基地としての役割も果たしました。行政からの支援物資が届かない中、いち早く同友会の支援物資が秋田や新潟・山形から届けられ、避難していた人たちから喜ばれました。

 高野グループで保有していた生コン車は、防災担当者会議での打ち合わせどおりに社員が高台に移動させて津波を免れました。この生コン車は給水に活躍しました。瓦礫や土砂の除去に威力を発揮するタイヤショベル(重機の1種)は、津波発生後、瓦礫や土砂で寸断され救援のためにも除去作業が求められていた町の主要幹線道路において、地元警察の要請を受け、高野氏の決断で除去作業に出動しました。社員は不眠不休で作業に尽力して、国道の復旧に貢献しました。

 

地域に必要とされる会社として

 今後の町の復興に向けて雇用を守ることが課題です。建物が壊滅的被害を受けた高野会館以外の会社は営業を再開しました。高野グループの社員は8割が休業補償、残りの2割は失業手当を受けてもらいながら希望があれば再雇用する考えです。雇用確保のため、近く仕出し弁当事業を始めるなど新しい事業を立ち上げています。

 今回の津波で、高野グループでは残念ながら 1名の社員が亡くなりましたが、悲しみを乗り越えて復興に向かおうという結束が生まれてきています。「故郷を愛する心を誇りとし一人ひとりが力を合わせ地域と共に発展する」という経営理念が、社員一人ひとりの心に宿っていたから今回のような動きになりました。「地域に必要とされる会社になっていきたい」― 高野氏の経営理念をつくったときの思いが実を結んでいます。 

「中小企業家しんぶん」 2011年 7月 5日号より

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